インディアンモトサイクル [Indian Motocycle] Official Site


    

『ネイティブ・アメリカンを身に纏う』

ネイティブ・アメリカンのプリミティブ(素朴な)でワイルドな感性と、 ハンドメイドのクラフト感彼らのもつウィービングカルチャー(織物文化)やシルバー(彫金)、 バスケット作りなどに見られる繊細な美意識、時代を経ても受け継がれる確かな物作りの姿勢。

これらのネイティブアメリカンのスピリッツと、今のファッションとを融合させた洗練された大人の為のネイティブアメリカンスタイルを提案しています。

America's Pioneer Motocycle

インディアンは、マサチューセッツ州スプリングフィールドにあったヘンディ・マニュファクチャリング社で製造されていた。
スプリングフィールドは、アメリカ最古の兵器工場のある町として有名であり、
スー族の酋長クレージーホースはモデル1873スプリングフィールド(銃の名前)を愛用していたし、
アパッチ族の酋長だったコーチスやジェロニモなどもスプリングフィールドの銃を使用していた。

創業者であるジョージ・M・ヘンディ、チーフエンジニアのカール・オスカー・ヘッドストロニウムの2人は、
まるで自分の手足のごとく馬を操るインディアンに憧れていた。
自由に走る馬は、あたかも彼らの意思を知っているかのように駆け巡る。
自分たちが造り出すモトサイクルにもその魂を吹き込みたい。
そんな2人の気持ちのかたまりが"INDIAN"と命名させたに違いない。

"INDIAN"のトレードマークは、インディアンとの戦いが完全終結してたったの10年しか経っていない1901(明治34)年当時、
自由と冒険を愛する若者のために造られたメカニカルホースにとって、
それ以上にふさわしい名はなかったことになる。

In the beginning
1901年(明治34年)INDIAN誕生

インディアン・モトサイクル社、アメリカ・マサチューセッツ州スプリングフィールドに創立。
創業者はジョージ・M・ヘンディ。

第1号車は、自転車のフレームに単気筒エンジンを積んだシンプルなものだった。
しかし、当時としては洗練されたスタイルをもち、
他のほとんどのバイクが後輪を駆動するのに革ベルトを用いていた時代に、
インディアンの第1号車は、チェーンを使用し、革新的であった。

このモトサイクル史上に新たなページを加えることになったインディアンの第1号車は、1901年の5月終わりに発売された。

1902年(明治35年)第1回アメリカ耐久レースで金メダル!

3台のインディアンが、第1回のアメリカ耐久レースに出場。

このレースはボストン→ニューヨーク間を走るもので、
この頃のアメリカのバイク・メーカーには<マーシ><ミッチェル><ポープ><ハートフォード><ウォルサム>などがあったが、
レースでは脱落するマシーンが多い中、3台のインディアンは完走し金メダルを勝ち取った。

この快挙は翌年も続き2年連続の金メダル獲得となる。

1903年(明治36年)ハーレー・ダビッドソン創業

後に(1910~1920年代)インディアンと熾烈な争いをすることになる。

1906年(明治39年)アメリカ大陸横断で新記録を達成!

インディアン社は1台のマシンをアメリカ大陸横断という大冒険に送り出した。
鉄道以外の方法で、5,000Kmの大陸横断を1人の人間ですることは不可能とされていた。

サンフランシスコ→ニューヨーク間(5,994Km)。

まだ州になっていないニューメキシコ、アリゾナを走り抜け、
とはいっても今日のような道と呼ばれるような道もなく、
あるのは映画『ダンス・ウィズ・ウルブズ』に出きたようなバッファローの走る道だけだった。

前年(1905年)、4輪車がこの大冒険にトライして32日と23時間15分という記録を残していたが、
インディアンはそれを大幅に35時間も短縮する31日と12時間15分というタイムを出した。

1911年(明治)インディアン・マン島レースで1~3位独占

アメリカ大陸横断で、インディアンは20日と9時間1分という記録を出す。

Vツイン7馬力の新型エンジンがものをいう。

この、20日と9時間1分という記録が樹立されると、
インディアンという名は、否が応にでも世界中に知れ渡っていく。

レースでのインディアンの活躍は、アメリカ国内にとどまらず、この年、マン島TTに挑戦。

ヨーロッパのバイク59台が出場する中、インディアンは5台エントリーし、全車完走という記録を残すとともに、1~3位を独占。
これはヨーロッパ製以外のバイクで初めて優勝したことにもなる。

ちなみに、この時のレーサーは、J・デ・ローザ氏で、彼はカナダに住む木こりだった。
当時のライダーは、腕っ節の強い喧嘩好きの男たちだった。
ローザは1911年の終わりにレース中のアクシデントで命を落とす。
その訃報に工場の労働者たちは仕事を中断し、黙祷を捧げる。

Great Motocycles,Bad Business 1920-1929

1920年(大正9年)アメリカのバイク10万台に、
1916~1920年にかけて、アメリカのバイクメーカーは200数社にも膨れ上がった。

1920年、この頃になると、アメリカのビック4は
<エキセルシャー><ヘンダ-ソン><ハーレ-・ダビットソン><インディアン>。

これら4社はボードトラックレース(板張りのレース場でスピードを争う)で、
営業成績をかけ、激しい争いを繰り広げているのであった。

インディアン、166Km/hの世界記録を樹立。しかし、すぐ、ハーレ-・ダビットソンがその記録を破る。

1921年(大正10年)ハーレーとの熾烈な争い、
インディアン世界記録176Km/h

インディアン、176Km/hを記録。

<<ボードトラックレース>>1920年代のレース

レース場としてダートの競馬場なども使われたが、
重要なレースは自転車競技場を真似て作られたサーキットであった。

木製の急傾斜バンクに何百万枚もの板が釘で打ち付けられていた。

レース用マシンはエンジンだけと言ってもよく、
ブレーキなしの前後輪ソリッドサスペンションであり、
事故で多くのレーサーが亡くなった。

Column


●第一次世界大戦終了後(1917年)、インディアンとハーレー・ダビットソンは、最大のメーカーだった。

両者は財務的にも健全、儲かっており、
1921年のハーレーは、67ヶ国にディーラーを配し、パンフレットも7ヶ国で印刷されていた。

アメリカのバイクがあまりにも売れ行きが良いため、
英国では33%もの関税をかけ、国産のバイクを守った。

1920年代を通してインディアンは、高性能、高品質の代名詞になっていた。

当時の代表的なモデルはSCOUT(スカウト)とCHIEF(チーフ)であり、
排気量は750ccと、1,000ccの、SVエンジンを搭載していた。

当時、バイクは大陸横断という荒波で耐久性の良さをアピールし、 またレースでスピードを争った。

この戦いは、すなわち1910~1920年にかけて、インディアンとハーレーとの戦いだったわけである。

1929年(昭和4年)

10月24日、ニューヨーク、ウォール街で株暴落。

世界恐慌が始まる。

1928年までに、アメリカのバイクメーカーは、15社から5社に減る。

インディアン、ハーレー、スーパーX(エキセルシャーの新社名)、ヘンダーソン、クリーブランドとなる。

しかし大恐慌が始まると、スーパーX、ヘンダーソン、クリーブランドは工場を閉鎖してしまう。
この時点で、インディアンとハーレーだけになる。

この2社が生きのびることができたのは、警察や軍関係、政府との取り引きも多かったからと言われている。

<<輸入規制を受ける>>
1929年には米議会で輸入品に対する関税法案が決められ、
これは、それぞれの国へも輸入規制となってあらわれた。
輸出への依存度が高かったインディアンは、もろに痛手を受けた。
大恐慌、輸入規制、バイク・ブームの下火。インディアンは工場閉鎖には至らなかったが、衰退の道へ。

Column


●1908年にT型フォードを開発し、
センセーショナルを巻き起こしたH・フォードが1913年より量産システムを確立。
1920年には、アメリカの市場シェア50%を占め、年間100万台生産。
1924年6月、フォードの世界オーナー・ドライバーの数が2,276万8,006人になったと発表。
交通手段としてバイクから自動車に移行していくという歴史的事実。
当然ながらモーターサイクルの販売台数も落ちていく。

The Great Depression

1920年代後半、絶対優位を保つために登場させた、
ストレートフォアは192Km/hこそ記録したが、あまりにも値段が高く、多くは売れなかった。

1929年に立法化された関税法案、そして大恐慌と、インディアンには悪いことが重なり、マーケットが縮小されていく。

1937年(昭和12年)

第1回デイトナビーチ・レースでインディアン・SVスカウト750cc優勝。

オーバルコースの1周は6.75Km。インディアンのライダーは、E・クレイツ。
2位に6.4Kmの大差をつけてゴールした。ニューモデルは発表できない、
さらに売上は落ちるで沈滞していたスプリングフィールドの工場は久しぶりに沸いた。

1939年(昭和14年)

インディアン・フォアの製造中止。
第二次世界大戦。
ヨーロッパで戦火が起こり、2年後にアメリカにも飛び火。

1945年(昭和20年)

大戦中、帝国主義政策の元、ヨーロッパ戦線でドイツ機甲部隊に打ち破る為のミリタリーバイクの開発に力を入れ、
陸軍にモデル841を納める。
第二次世界大戦終了。(アメリカのバイク・メーカーは、インディアン、ハーレ-、マスタングの3社しか残っていなかった。)

Slowdown,Shutdown and Labeling
1950年(昭和25年)

最高時速144Km/h、4段ミッション、イギリス製マシンに比べ遜色のなかったスカウトも、
過去インディアンが得た評判を、というわけにはいかなかった。
スプリングフィールドの工作機械のほとんどは世界大恐慌以前のもので、かつての華やかな感じは皆無だった。
20年前の古い工作機械で、まさしく社運をかけてアローとスカウトに夢をたくしたが、ついに実現しなかった。

1952年(昭和27年)

ついに、インディアン・チーフの生産を中止。そして、インディアン・スカウトも生産中止。

1953年(昭和28年)

インディアン、工場閉鎖、製造中止。

2007年公開 アンソニー・ホプキンス主演
映画『世界最速のインディアン』

ぴあ2007年度映画満足度ランキング
外国映画ベスト10<第1位>

2007年2月インディアンのバイクを題材にしました映画
『世界最速のインディアン』が公開されました。

あらすじ

夢に向かって全力疾走した実際のバイクライダー、バート・マンロー。
出会った人すべてをHappyにしてしまう、時速300キロのロードムービー!!


ニュージーランドの最南端から、とんでもない男がやってきた…!!!!
バート・マンロー、63歳。若くはないし、金もない。しかし彼には、愛するバイク<インディアン>と、誰にも負けない情熱があった。

21歳のときに出会った【インディアン】という名前のバイクに惚れこみ、40年以上もかけて独力で改造し続けたバート。
愛するマシンの実力をどうしても知りたい彼は、ライダーの聖地、アメリカ、ユタ州ボンヌヴィルの"スピード・ウィーク"を目指し、旅に出る。

貨物船に乗り込み、海路アメリカへ。果てしない荒野を走りユタ州へ。
資金も乏しく、身体にもガタがきているバートだが、出会った人々に助けられつつ、ようやく憧れの地にたどり着く。
ところが、レース前の検査で、【インディアン】は「とんでもないボロ車」と失格を宣言されてしまう。

果たしてバートと【インディアン】は、夢をかなえることができるのか―?
これは奇跡のような大記録に挑戦した男の【実話】をベースにした人情あふれるロードムービー。